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台北茶話 大稲埕の純情・かみしめる甘さ (TAIPEI Quarterly 2017 夏季号 Vol.08)

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発表日:2017-07-14

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台北茶話
大稲埕の純情・かみしめる甘さ

文 _ 王瑞芬 写真 _ 有記名茶、高伝棋

淡水が開港し貿易を始めた1860年、淡水河上流にある大稲埕の水路も世界に開かれました。西洋から持ち込まれた新しい考え方や趣味は、探求心や視野を広げるとともに、さまざまな商業が生まれ、大稲埕の茶葉貿易もその一つとして発展しました。1869年から1895年にかけては、大稲埕の茶葉産業が最も盛んな時期で、ふ頭のそばには茶葉の入った木箱が山のように積み上げられ、人々がせっせと貨物を積み下ろす光景がみられ、大稲埕は台湾で最も重要な茶葉産業の集積・流通の地となり、台湾一の茶葉輸出量を誇りました。
TAIPEI 夏季号 2017 Vol.08   台北茶話 大稲埕の純情・かみしめる甘さ
▲ (写真/高伝棋)

台湾茶に光あてた茶貿易
大稲埕の茶葉貿易と言えばこの二人、ジョン・ドッド氏と李春生氏を忘れてはなりません。
淡水の港が開かれてからというもの、西洋の商人が次々に台湾に商材を求めてやってきました。英国の商人ドッド(杜徳)氏はそれに前後して、台湾北部の山間部にショウノウ(樟脳)調査のため訪れたとき、台湾の土壌や気候、環境が茶樹の生育に極めて適していることを発見しました。そこで、中国のアモイで茶葉を扱っていた李春生氏とともに茶葉の買い付けを始め、台湾北部で茶葉事業を展開することとなりました。
TAIPEI 夏季号 2017 Vol.08   台北茶話 大稲埕の純情・かみしめる甘さ
▲ テーブルを囲んで茶葉を仕分けする様子。(写真/高伝棋)

ドッド氏は当時、北部の農家に茶葉の生産を奨励しました。まず茶のふるさとと言われる中国の福建省安渓からウーロン茶の苗を取り寄せ、農家が奨励品種を購入できるよう貸し付け金も用意しました。茶葉の質の向上を追求し、製茶の設備を整え、さらに福建から製茶職人を大々的に招聘し、大稲埕でウーロン茶の製茶に取り組みました。1869年、ドッド氏は大型帆船2隻に13万キログラム近いウーロン茶を積み込んで米国のニューヨークに乗り込みます。これが大好評を博し、台湾茶葉の欧米市場開拓の先駆けとなりました。「フォルモサ・ティー」の名は世界的になり、多くの外国商人が大稲埕に店を構えるようになったのです。
TAIPEI 夏季号 2017 Vol.08   台北茶話 大稲埕の純情・かみしめる甘さ
▲ 製茶にはたくさんの人手を要しました。(写真/高伝棋)

茶の香りあふれる大稲埕に
淡水河沿いの貴徳街は、当時の台湾二大商人、李春生氏と林維源氏の出資で整備されました。茶葉を扱う問屋街であり、洋館街であり、外国人の集住地域であるだけでなく、多くの地元の大商人がここに瀟洒な洋館を立てました。茶葉を扱う店が多かったため、茶葉のすがすがしい香りが漂う、台北城内で最も香り高いところだったと言えるでしょう。
TAIPEI 夏季号 2017 Vol.08   台北茶話 大稲埕の純情・かみしめる甘さ
▲ (写真/高伝棋)

茶葉貿易が活発になったために、大稲埕はわずか数十年で一躍発展、商圏が急速に広がりました。現在の迪化街、甘州街、民生西路の一帯は当時名の知られた茶葉商店の集積地として最盛期には200店余りが林立し、日本統治時代まで栄えました。現在ではかつてのように輸出は盛んではなくなりましたが、大稲埕には今でも品質にこだわる老舗が多く残り、台湾の茶文化を引き継ぎ、伝えています。
TAIPEI 夏季号 2017 Vol.08   台北茶話 大稲埕の純情・かみしめる甘さ
▲ 機械を回して茶葉を選り抜きます。(写真/高伝棋)

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