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昔と今が行き交い溶け合う 中山北路「条通」と赤峰街 移ろいゆく人々の暮らし (TAIPEI Quarterly 2018 春季号 Vol.11)

アンカーポイント

発表日:2018-03-16

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昔と今が行き交い溶け合う

中山北路「条通」と赤峰街

移ろいゆく人々の暮らし

 _ 高穂坪

写真 _ 黄宇凡、劉徳媛、中央通訊社、聯合知識庫、台北市立文献館

▲1957年、台北で最も近代的な通りであった中山北路。(写真/台北市立文献館提供)

 

過去と現在が交錯する台北の路地には、いくつもの時代を経て積み重ねられたさまざまな文化の足跡が残されています。かつて優雅な日本式宿舎が立ち並んだ中山北路の「条通」地区は、ネオンきらめく繁華街となりました。素朴な人情味あふれる赤峰街には昔ながらの中古の自動車部品を扱うお店と、新しい風を吹き込むさまざまなショップが共存しています。歴史あるこの街の路地では、語りつくせない物語と驚きをいつでも探すことができます。


▲1959年の「条通」地区。過去の風景は失われましたが、かつてのにぎわいと日本の風情は今も残されています。(写真/中央通訊社、台北画刊599期)

 

中山北路の「条通」
喧騒の中の閑静な高級住宅地

現在の中山北路1段から3段は、日本統治時代に皇室の人々や各国特使などが台湾神社へ参拝するために作られた「勅使街道」でした。広々とまっすぐ伸びた中山北路1段は今も台北市の重要な道路です。ただ、南京東路との交差点から路地へ入ると、せわしない中山北路とは異なる雰囲気を感じることができます。

現在「条通(〇条通り、〇には1から10までの数字が入る)」地区と呼ばれる中山北路より東、新生北路より西、南京東路より南、市民大道より北の一帯は台湾総督府(現在の総統府)、台北帝国大学(台湾大学)などに近かったため、大正時代に「大正町」として整備されて日本人官僚の宿舎が建てられました。当時の和式宿舎は1軒が80坪から100坪の広さのある庭つき木造戸建ての高級住宅で、いずれも要職に就く官僚が住んでいました。「談笑有鴻儒,往來無白丁(出入りするのは学のある者だけ)」と言われた瀟洒で豊かな住宅地だったのです。

第二次世界大戦後、日本人は台湾を離れることになり、一部の宿舎は台湾人に譲り渡されました。また住民が増加したため戸建ての宿舎は取り壊され、より多くの人が住むことのできるれんが造りの集合住宅が建てられました。戦後の経済復興に伴って、中山北路にはチャイナドレスや舶来品を売る店などが軒を連ね、大手銀行も支店を置くようになります。好立地である「条通」地区は公務員や弁護士、医師が家を構えたがる最も人気のある場所でした。毎日黄昏時になると、夕食の準備のため練炭に火を起こした家々から立ち上る煙や、当時まだ排水路だった林森北路や天津街で魚を捕まえて喜ぶ子どもたちの声が、仕事が終わり温かい家へ帰る人々を出迎えたものでした。

台湾へやってきた蒋経国元総統の一家は1969年まで長安東路18号の公邸に住んでいましたが、その後、道路拡張のため取り壊すこととなり「七海寓所」と呼ばれた公邸へ引っ越しました。1966年から「条通」地区に暮らす正得里の呉蘇秀霞里長は「ここは行政機関に近くて環境が良く、中山北路一帯の商業活性化にも一役買っている地区です。戦後、日本人が去ってからは台湾人が住むようになり、当時はみんなが生活のために必死で働き、質素に暮らしていました」と話します。


日本統治時代、高級住宅地だった中山北路「条通」地区には今も当時の道路名が残っています。 (写真/劉得媛)


▲1964年の赤峰街。建物のほとんどが重層長屋建ての日本式宿舎と台湾式の戸建て住宅でした。(写真/聯合知識庫、台北画刊599期)
 

ネオンきらめく繁華街に

1980年代前後、台湾と日本の貿易が非常に盛んで、中山北路2段から3段一帯には多くの日本の商社がオフィスを構えるようになります。「条通」地区では、政府の取り締まりが厳しくなった北投温泉から移ってきた飲み屋などが台湾人と日本人を相手に営業を続けていました。夜になって灯りがともり始める頃、このエリアは日本人に大人気の歓楽街へと変身しました。路地には日本料理店、カラオケ、スナックなどが立ち並び、三輪自転車が路地口で客を待ち、人々がひしめくにぎやかなその様子は、台湾経済の黄金期に鮮やかな色どりを添えました。

「みなさんは飲み屋が多い『条通』地区を治安に問題があるところだと誤解していますが、多くの店が地域の活動に喜んで参加してくれますし、近隣住人との関係も良好です。ここを訪れるお客さんも夜半には帰りますし、住民の生活に影響はありません」呉蘇秀霞里長はこう話してくれました。

本場の味に残る日本の風情

現在「条通」地区ではスナックやバーは少なくなり、かつてのきらびやかなにぎわいは影を潜めました。今はそれに代わってラーメン店、鰻料理店、居酒屋など多くの日本料理店がさまざまな本場の料理を台北の人々に提供しています。ここは食通が美味しい料理を求めて訪れるだけでなく、濃厚な日本の風情を今も残している場所なのです。

「条通」地区を散策して、静かで懐かしい日本情緒にひたり、本場の日本料理を楽しみ、台湾の多様な文化が生んだ新たな一面を感じてみてはいかがでしょうか。まるでこの百年の時間がすぐそばをゆったりと流れていて、手を伸ばせば触れることができるかのようです。

建成公園は今も近所の子どもたちが大好きな遊び場です。(写真/黄宇凡)

 

赤峰街
人々の苦労が生んだ繁栄

中山北路の「条通」地区からほど近くにある赤峰街は日本統治時代、行政機関から近かったため日本の下級公務員が数多くここで暮らしていました。また大稲埕や延平北路にも近かったことから、台湾の労働者階級の人々も少なくありませんでした。そのためこの通りには重層長屋建ての日本式宿舎と台湾式の戸建て住宅が多く、その間に裕福な台湾商人が建てた二階建ての洋館がいくつか見られます。

現在の赤峰街と承徳路2段の間にある建成公園には、かつて台湾最初の児童遊園地があり、近所の子どもたちに大人気の遊び場でした。南京西路と赤峰街の交差点に作られた飴工場から漂う甘い香りは、子どもたちの歓声とともに過酷な環境での生活の苦しさを和らげました。

日本人が去った後、赤峰街の日本式宿舎には台湾人が住むようになります。また生活のために地方から多くの労働者が集まり、生活空間が混み合うようになりました。幼少期を赤峰街で過ごした台湾大学哲学科の李日章教授は、当時をこう振り返ります。当時、1棟の狭くて長いれんが造りの台湾式戸建て住宅に一番多い時で8世帯が住んでいたそうです。その中には学生、教師、公務員、鍛冶屋の労働者から中山北路付近のスナックで働く女性までいました。小さな町の一角で、さまざまな人生ドラマが繰り広げられていたのです。

また近くの南京西路、延平北路では戦後の経済復興に伴って、第一劇場や大中華戯院などの施設が次々とでき、さまざまな商店や屋台が赤峰街の賑やかな生活を形作りました。
 

「鍛冶屋街」でなく
「くず鉄街」

70年から80年前、承徳路はまだアスファルトで舗装されていない土の道で、道路の両脇には鍛冶屋が数多くあったため「打鉄仔街(鍛冶屋街)」と呼ばれていました。隣の赤峰街は中古の自動車部品を売る店が多く、「鍛冶屋街」と隣合っていることから「歹鉄仔街(くず鉄街)」という名前がつきました。李教授によれば、1970年代に政府が承徳路の拡張工事を行った際、一部の鍛冶屋が赤峰街へ移転したため、昔から名の知られた「鍛冶屋街」は赤峰街のことだと誤解している人もいるのだそうです。

「『くず鉄街』の店は欧米や日本から輸入した中古の自動車部品を修理して整備工場へ販売しています。また直接赤峰街へ来て部品を探す自動車オーナーも多いんですよ」。1981年からここで元大汽車材料店を経営する陳さんはこう語ります。「景気が一番良かった頃、どの店も毎日大繁盛していました。今の売上はその時の6割くらいになってしまいましたが、どの店もプロの技術で部品を扱うというこだわりを持っています。台湾の工業発展を影で支えるなくてはならない存在です」。

赤峰街は中古の自動車部品を売る店が集まり「くず鉄街」とも呼ばれています。(写真/黄宇凡)
 

新しいショップが
もたらす活気

近年、赤峰街の閑静な雰囲気に、多くの飲食店や服飾、雑貨販売など特色ある店が引き寄せられ、このエリアに新しい風を吹き込んでいます。

赤峰街41巷でカフェを経営する頼さんは店をオープンした当初、雑貨屋などは今ほど多くなかったと言います。路地には懐かしい雰囲気があふれていて機械部品を扱う店が数多くあり、独特の魅力を放っていたそうです。古着店のオーナーである詹さんは元々内湖にお店を持っていましたが、赤峰街のゆったりと過ごしやすいな雰囲気に魅せられたことに加えて、客層の近い店が集まる経済効果にもひかれて移転することにしました。今は赤峰街でセンスと創意を発揮し、実用性と質感を兼ね備えた商品を販売しています。部品を売る年配の人々と若いオーナーたちが互いに打ち解け、このエリアに新たなにぎわいを生み出していくことでしょう。

日本統治時代の建物から「くず鉄街」に響くトントンカンカンと鉄を叩く音、カラフルなカフェやおしゃれなショップ、四方に広がる濃厚なコーヒーと素朴で知的な文化の香り赤峰街では新旧の産業がぶつかり合い、融合し、独特の雰囲気が形作られ、今や台北でも見逃せない宝探しの場所となっています。


台湾大学哲学科の李日章教授は幼少期を赤峰街で過ごしました。(写真/黄宇凡)

カフェやおしゃれなショップなどが集まるようになった赤峰街では、懐かしさと新しさが融合した独特の活気が生まれています。(写真/黄宇凡)

 

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