発表日:2021-07-02
1849
TAIPEI #24 (2021 夏季号)
古き良き台北人に続いて大龍峒を掘り下げる
文:Yining Chen
編集:下山敬之
写真:Yenyi Lin、Taiwan Scene
淡水河と基隆河の境界地点に位置する大龍峒(ダーロントン)は、古くは北部の平埔族・バサイ族の集落でした。オランダ統治時代の文献に記録があり、当時は「Pourompon」と呼ばれていました。大龍峒の台湾語の発音である「大浪泵(ドァーロンゴン)」にも数百年前のイントネーションの名残があります。
清代初期、泉州同安区の漢人が大量に移住してきました。そして、次第に「同安が栄える」という意味で、「大隆同(ダーロントン)」と呼ばれるようになっていきます。その後、この地では科挙の郷試に合格する人が多く、郷里の人々が同地を傑出した人物を排出する龍穴であると考え、龍の住む祠という意味で現在の「大龍峒」へと変化しました。
「同安の加護」信仰が現地の文化を継承
艋舺、大稲埕といった淡水河畔の集落同様に、大龍峒もまた台北で早期に発展した地域の一つです。清朝時代、この地に移住した泉州の同安人が保生大帝の信仰をもたらすと、清乾隆年間には保安宮を建立して「同安の加護」を祈願。保生大帝は人々が信仰する医薬の神として、200年以上を経た今も参拝客が絶えず訪れます。このように、保安宮は台北の宗教信仰を支える重要な場所です。
▲保安宮は台北に住む人たちが多く訪れる宗教信仰の中心的な場所です。
大龍峒の歴史や文化と共に発展した保安宮のそばにある四十四坎旧跡は、かつて台北で最も早期に計画された道路でした。現地の商人一家が保安宮を建立した後、残った建材を活用して二列の木造瓦葺きの商店街を設立。どの店舗も大きさ、長さ、幅が同じ。このような建築様式は「坎」と呼ばれ、また、この道路の左右にはそれぞれ22軒の店舗があったことから、四十四坎街と名づけられました。
後に四十四坎街の建物は道路の拡張によって次々と解体されましたが、それでも街中にある正一堂国薬号など多くの店舗が今もまだ残っています。哈密街と重慶北路の交差点の地面に刻まれた「大隆同」の文字には、かつて賑やかだった商店街の面影が残っています。
▲かつて「四十四坎街」と呼ばれた哈密街には、清朝時代に整備された町並みが残っています。
大龍峒保安宮(バオアンゴン)の周辺に凝縮された信仰と文化はこれだけではありません。ほかにも台湾で唯一の「耳のない金獅子」というローカルの大龍峒金獅団があります。設立された時期が大龍峒とほぼ同じで、当初は民間防衛の需要によって結成されましたが、後に武術が芸術に変わり、獅団へと転身しました。耳のない獅子は流言飛語に惑わされず、目の前の芸と目標に集中する象徴です。この精神もまた、獅芸文化と共にいくつもの時代を越え、大龍峒で根を下ろしました。
台北の文学系青年のルーツを巡る
四十四坎街で立身出世した陳一家は、大龍峒地区の豊かな人文の礎を築きました。清代に樹人書院を建設し、日本統治時代には孔子廟を建設。陳一家の祖先(の邸宅である陳悦記祖宅)チェンユエジーズザイーは大龍峒の有名な古跡となっています。
延平北路四段に位置する陳悦記祖宅は、商(売で富を成した陳遜言)チェンシュンイェンが
1807年に建設した閩南様式四合院造りの大邸宅です。現在も邸宅には挙人に合格した家に建てられる彫刻を施した一対の石柱「石旗竿(彫刻)」が見られます。これは台湾に現存する唯一の一対です。
陳家はかつて、清代に官職と多くの書院で教員を務めた陳維英(チェンウェイイン)を含む3人の挙人を輩出しました。挙人とは清代の科挙制度に合格をした人を指します。陳家は数々の秀才を輩出したことから、尊敬の念を込めて現地で先生と呼ばれました。そこから派生して陳悅記宅も「老師府(老師は先生という意味)」と呼ばれています。老師府は今もその一部を陳家の子孫が使用していますが、遠くから眺めると邸宅の外観に修繕された痕があり、凝縮された長い年月を垣間見ることができます。
▲老師府の中には功績を称える「扁額」が今でも残っています。
教育の普及を重視した陳維英は、保安宮内に「樹人書院(シューレンシューユエン)」を設置。現地の青年に知識を教え、地方文化の発展を推進し、大龍峒に知的で文学的な雰囲気を添えました。その後、樹人書院は日本統治時代に保安宮から転出し、別に「樹人書院文昌祠」が建てられました。また、奨学金を与えて多くの学生を奨励し、人材を育成したことから、現在では受験生の間に伝わる「隠れスポット」となっています。毎年学期末試験前になると、溢れんばかりのお供え物が添えられ、受験生たちが誠意を持って祈りを捧げていることがわかります。
老師府の陳悦記祖宅と樹人書院は、台北で最も早期に文学系青年が集まった場所であり、現在でも大龍峒の教育文化を見守り続けています。
学問の名家が伝える台北の孔子廟と儒家思想
大龍峒の陳家は、当時の台北孔子廟と儒家思想の伝承を促す推進者でした。台北最古の孔子廟は清代に建立され、場所は当時の台北城南門内にありました。しかし、日本統治時代には解体され、そこに第一高等女学校及び日本語学校(今日の北一女及び台北市立教育大学)を建設。
日本統治時代中期になると、台北の地方の有力者が孔子廟なくして儒学の伝承は困難と考え、孔子廟の再建を協議しました。当時会議に出席した陳培根が、孔子廟を大龍峒に建設できるのであれば、家族の土地を寄贈したいと申し出ました。それによって最終的に再建が決定し、1927年に正式に起工。1939年に全体の建築群が落成し、今日私たちが目にしている孔子廟が完成しました。
▲近代に建立された台北孔子廟は、台北に残る漢民族の文化を守り続けている場所です。(写真/Taiwan Scene)
この孔子廟は、大龍峒地区が貫いてきた漢学文化のるこだわりを守られています。現代を生きる私たちにとっては、台北城の変化と発展の流れを知ることができる貴重な場所です。
大稲埕のように昔ながらの台北の商業活動を継承する華やかさはありませんが、閑静な路地裏と安らかな寺廟は、芸術と文化的な雰囲気を感じることができます。
古き良き台北人に続いて大龍峒を掘り下げる
文:Yining Chen
編集:下山敬之
写真:Yenyi Lin、Taiwan Scene
淡水河と基隆河の境界地点に位置する大龍峒(ダーロントン)は、古くは北部の平埔族・バサイ族の集落でした。オランダ統治時代の文献に記録があり、当時は「Pourompon」と呼ばれていました。大龍峒の台湾語の発音である「大浪泵(ドァーロンゴン)」にも数百年前のイントネーションの名残があります。
清代初期、泉州同安区の漢人が大量に移住してきました。そして、次第に「同安が栄える」という意味で、「大隆同(ダーロントン)」と呼ばれるようになっていきます。その後、この地では科挙の郷試に合格する人が多く、郷里の人々が同地を傑出した人物を排出する龍穴であると考え、龍の住む祠という意味で現在の「大龍峒」へと変化しました。
「同安の加護」信仰が現地の文化を継承
艋舺、大稲埕といった淡水河畔の集落同様に、大龍峒もまた台北で早期に発展した地域の一つです。清朝時代、この地に移住した泉州の同安人が保生大帝の信仰をもたらすと、清乾隆年間には保安宮を建立して「同安の加護」を祈願。保生大帝は人々が信仰する医薬の神として、200年以上を経た今も参拝客が絶えず訪れます。このように、保安宮は台北の宗教信仰を支える重要な場所です。
大龍峒の歴史や文化と共に発展した保安宮のそばにある四十四坎旧跡は、かつて台北で最も早期に計画された道路でした。現地の商人一家が保安宮を建立した後、残った建材を活用して二列の木造瓦葺きの商店街を設立。どの店舗も大きさ、長さ、幅が同じ。このような建築様式は「坎」と呼ばれ、また、この道路の左右にはそれぞれ22軒の店舗があったことから、四十四坎街と名づけられました。
後に四十四坎街の建物は道路の拡張によって次々と解体されましたが、それでも街中にある正一堂国薬号など多くの店舗が今もまだ残っています。哈密街と重慶北路の交差点の地面に刻まれた「大隆同」の文字には、かつて賑やかだった商店街の面影が残っています。
大龍峒保安宮(バオアンゴン)の周辺に凝縮された信仰と文化はこれだけではありません。ほかにも台湾で唯一の「耳のない金獅子」というローカルの大龍峒金獅団があります。設立された時期が大龍峒とほぼ同じで、当初は民間防衛の需要によって結成されましたが、後に武術が芸術に変わり、獅団へと転身しました。耳のない獅子は流言飛語に惑わされず、目の前の芸と目標に集中する象徴です。この精神もまた、獅芸文化と共にいくつもの時代を越え、大龍峒で根を下ろしました。
台北の文学系青年のルーツを巡る
四十四坎街で立身出世した陳一家は、大龍峒地区の豊かな人文の礎を築きました。清代に樹人書院を建設し、日本統治時代には孔子廟を建設。陳一家の祖先(の邸宅である陳悦記祖宅)チェンユエジーズザイーは大龍峒の有名な古跡となっています。
延平北路四段に位置する陳悦記祖宅は、商(売で富を成した陳遜言)チェンシュンイェンが
1807年に建設した閩南様式四合院造りの大邸宅です。現在も邸宅には挙人に合格した家に建てられる彫刻を施した一対の石柱「石旗竿(彫刻)」が見られます。これは台湾に現存する唯一の一対です。
陳家はかつて、清代に官職と多くの書院で教員を務めた陳維英(チェンウェイイン)を含む3人の挙人を輩出しました。挙人とは清代の科挙制度に合格をした人を指します。陳家は数々の秀才を輩出したことから、尊敬の念を込めて現地で先生と呼ばれました。そこから派生して陳悅記宅も「老師府(老師は先生という意味)」と呼ばれています。老師府は今もその一部を陳家の子孫が使用していますが、遠くから眺めると邸宅の外観に修繕された痕があり、凝縮された長い年月を垣間見ることができます。
教育の普及を重視した陳維英は、保安宮内に「樹人書院(シューレンシューユエン)」を設置。現地の青年に知識を教え、地方文化の発展を推進し、大龍峒に知的で文学的な雰囲気を添えました。その後、樹人書院は日本統治時代に保安宮から転出し、別に「樹人書院文昌祠」が建てられました。また、奨学金を与えて多くの学生を奨励し、人材を育成したことから、現在では受験生の間に伝わる「隠れスポット」となっています。毎年学期末試験前になると、溢れんばかりのお供え物が添えられ、受験生たちが誠意を持って祈りを捧げていることがわかります。
老師府の陳悦記祖宅と樹人書院は、台北で最も早期に文学系青年が集まった場所であり、現在でも大龍峒の教育文化を見守り続けています。
学問の名家が伝える台北の孔子廟と儒家思想
大龍峒の陳家は、当時の台北孔子廟と儒家思想の伝承を促す推進者でした。台北最古の孔子廟は清代に建立され、場所は当時の台北城南門内にありました。しかし、日本統治時代には解体され、そこに第一高等女学校及び日本語学校(今日の北一女及び台北市立教育大学)を建設。
日本統治時代中期になると、台北の地方の有力者が孔子廟なくして儒学の伝承は困難と考え、孔子廟の再建を協議しました。当時会議に出席した陳培根が、孔子廟を大龍峒に建設できるのであれば、家族の土地を寄贈したいと申し出ました。それによって最終的に再建が決定し、1927年に正式に起工。1939年に全体の建築群が落成し、今日私たちが目にしている孔子廟が完成しました。
この孔子廟は、大龍峒地区が貫いてきた漢学文化のるこだわりを守られています。現代を生きる私たちにとっては、台北城の変化と発展の流れを知ることができる貴重な場所です。
大稲埕のように昔ながらの台北の商業活動を継承する華やかさはありませんが、閑静な路地裏と安らかな寺廟は、芸術と文化的な雰囲気を感じることができます。
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