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TAIPEI 2015秋季号 Vol.01—社子島の画家洪曜平氏 絵で故郷を記録

アンカーポイント

発表日:2016-06-14

更新日:2016-09-23

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延平北路八段にある二階建ての古いアパートの入り口に、「中日親善会全日本書画展覧会台北弁事処」と書かれた古めかしい手書きの看板があります。階段を上ると二階の木製扉には「画室」の二文字がピシッと貼られており、扉をたたくと92 歳の洪曜平氏が迎えてくれます。かくしゃくとした姿によく通る声、足が関節炎でやや不自由なことを除いては露ほども年齢を感じさせません。
 
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▲洪曜平氏のアパートにかかる手書きの看板
 
頭角を現した学生時代
洪曜平氏は台北市にある社子島という地域で活躍する古参の画家で、学生時代から芸術の分野で頭角を現しました。日本統治時代に生まれた氏は国民学校で学び、多くの科目の中で美術に最も関心を示し、学校を代表し頻繁に各種の絵画コンクールに出展しました。後に日本人画家の大賀相雲氏と台湾人画家の先達林玉山氏に師事、初期の作品にはしばしば「旧雪山房石山」との記載が見られますが、「旧雪山房」は大賀氏に師事した当時の画室の名で、「石山」は雅号です。
 
23 歳で氏はプロの画家を目指す決心をします。若い頃は映画や広告の看板や廟で門の扉に貼る魔よけの神様を描きました。作品が円山大飯店のギャラリー「集珍室」の展示品となったこともあります。芸術に出会ってから今日に至るまでの70 年余り、92 歳でも絵筆を握り続け、様々なコンクールの賞状が積み重ねられているアパートの一角で、自信をたたえて微笑みます。「賞状は100 枚にのぼるでしょうな。感謝状はもっと多いですよ。」
 
氏には日本と関係した興味深い経歴がいくつかあります。例えば、かつて日台芸術界の懸け橋になっていたことです。日本政府の引き揚げ後10 年ほどにわたり、交流や展示用の絵画作品は日台双方ともに氏を経由せずには送ることができないという時代があったのです。日本から台湾の芸術家らに送られた感謝状や賞状も氏を通して各自の手に渡りました。
 
もう一つの出来事は氏が50 代の時のことです。氏は当時、決意をもって故郷を離れ日本に留学しました。興味深いことに、目的は芸術ではなく東京国際大学で企業管理を学ぶことでした。「当時日本語で書き上げた論文は学校の審査を経て多くの外国人学生の首席となったんです。」当時の勇気を思い起こした英雄の顔に誇りが満ちあふれます。この経験も氏の人生に伝説的な彩りを添えることになりました。
 
人生の後半戦は教育活動に力を入れ、日本人学校で8 年間絵を教えました。日本人学校の美術教師にも教えていた氏は笑いながら言います。「日本人の生徒だけでも200 人以上はいます。」その後故郷のために、社子島のコミュニティーカレッジ延平画会で大人に絵を教え、すでに16 年になります。
 
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▲日本の新聞が洪曜平氏の絵画や事績を紹介。
 
絵に込める故郷への愛
幼い頃から社子島で育った氏は、故郷への想いを作品に込めています。淡水河の漁船や村の古い小さな廟と、氏の描く作品は社子島の発展の記録となっています。壁にかかる台湾伝統の三合院建築を描いた一枚の油絵を指し「今私が住んでいるこの2 階建ての家は、昔はこうだったんですよ。」と説明します。絵には台湾伝統の民家「三合院」が描かれ、広々した前庭では女性が洗濯物を干し、男性は畑仕事をしています。男女で分業して仕事に勤しむ人々の昔ながらの質素な様子がとてもよく表れています。
 
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▲洪曜平氏の傍の作品は幼少期の家。
 
「こんな庭付き大邸宅の多くは裕福な家にしか建てられませんから、当時はわずかしかありませんでした。一般の人はかやぶきの小屋に住んでいました。」描かれた三合院の裏手にある竹林を指し氏は続けます。「社子島は河口にあるから風が特に強く、家の周りには防風林を植栽するんです。以前は年に3 つも4 つも台風が来まして、台風の度に3メートルほどまで浸水したものです。今は堤防がありますから浸水状況も改善されましたが。」
 
短い日本留学時代を除いて故郷を離れたことがない氏は、日本統治時代から1986 年まで55 年もの間、町内会長を務めていました。社子島の長老として、付近の学校の建設時期や道路修理時期などの事情に明るく、地域のために様々な土地の歴史を記録しています。社子島は淡水河と基隆河の交わる場所であるため重視されるべきだとしみじみ語る氏は、「河口から内陸へと開発が進んだニューヨークのマンハッタンのようになるべきだ」と考えています。
 
多種多様な画法と題材
氏は油絵も水墨画も描きます。テーマは幅広く、人物、動物、花卉などの植物、そして山水画も精彩を放っています。水墨画は油絵よりも難易度が高く、確かな技術が必要だそうです。「油絵は失敗しても上から絵の具を重ねることができますが、水墨画は塗りつぶして描き直せませんからね。20 年学んでもまだ終わらない、非常に奥の深いものです。」
 
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▲洪曜平氏の描くトラには母性と慈愛に満ちている。
 
氏の動物作品からは、トラとコイへの思い入れが感じられます。トラは猛々しく堂々として躍動感があり、母性と慈愛にも満ちています。若い頃はトラを描くために、よく円山動物園でそのしま模様や動きなどの特徴を観察したと振り返ります。「トラは口を開くと上下それぞれに2 本の長い牙があり、獲物にかみつくと放しません。牙の間にはそれぞれ6 本の歯があります。そして前足には5 本の爪、後ろ足には爪が4 本しかありません。爪をどんな時に引っ込めどんな時に出すのか、私はよくわかっています。」
 
コイを描くためには、わざわざ買ってきて家で飼育し、ウロコの数を細かく数えるなどじっくり観察したそう。氏は「側線上のえらから背びれの位置までは12 枚、背びれから尾びれまでは24 枚のウロコがあります。6 列目のウロコの下には淡い筋があるんですよ。」とその成果を語ります。鳥類にしても、それぞれの性質による違いに基づいて描きます。タカはエネルギーにあふれ、クジャクは華麗で誇らしげ、鶏や七面鳥は素朴な故郷の味わいを醸し出し、水鳥と山鳥の区別もしています。「水鳥は尾が短くて足とくちばしが長いので、水中の魚を獲るのに便利。山鳥は尾が長く、足とくちばしが短いんですよ。」氏はこの話になると、途端に饒舌になります。
 
また自然から多くを学び、植物を描く時のコツを得ました。「梅、蘭、竹、菊の四君子が基本です。高木、低木、つる植物など各植物の枝葉はそれぞれ異なる描き方があります。」そして卓上のメモ用紙とサインペンを手に取り、魔法のように手早く植物を幾種類か描いてくれました。「蘭の花を描く時は、一本の枝に十数輪の花をつけます。間の枝葉は細く描くことで風に揺れる様子が表現できます。松の木は一針一針の葉が天に向かい、下に垂れる笹の葉とは違います。『地に落ちる松の枝なし、天を向く笹の葉なし』という言葉を聞いたことがありますか。」
 
氏の描く山水も絶品、古来からの「遠くの山にはひだを描かず、遠くの樹には枝を描かず、遠くの水には波を描かない」という「三遠法」を用いており、墨の濃淡により山の立体感を表現します。「近い山は濃く太く、遠くの山はかすみがかったようにするため淡く薄く描きます。」また西洋絵画の空間透視法や明暗法を中国の山水画に取り入れようと試み、各地を旅行し見聞を広め創作の肥やしとしてきました。作品に登場する吊り橋も日本の風景を元にしたものです。
 
山水画に描かれる山脈には色鮮やかな緑色が施され、珍しい木々、家屋、船が描き込まれています。まるで住むも良し、遊ぶも良しの幻想的な場所に足を踏み入れたかのようで、想像力を無限にかき立てます。自身の山水画について「皆カメラを持っていますから、絵は写実的になりすぎない方が良いです。オリジナリティーを加えてカメラでは撮れないものを表現するんです。昔からの方法にとらわれてしまうと人の真似になり新境地を開くことができません。」と語ります。
 
氏に16 年間師事した延平画会の呂阿南会長は、氏の作品はいくら見ても見飽きず、どのレッスンでもそれぞれに理論があり、門下生に対しゆるぎない基礎を築いてくれると氏を称えます。「先生を試そうと思っても、いつも完敗です。我々が描けない竜や昆虫でも、先生はいつもさっと我々の考えていたものを描き出してしまいます。」
 
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▲メモ用紙にサインペンでさっと描く洪曜平氏
 
氏は生涯で数千もの作品を描き、中国、台湾、日本などを融合させた多彩な作風で伝統的中国絵画に新風を吹き込みました。以前、国父紀念館で回顧展を開催し絵画人生の記念としたこともあります。これまでを振り返り、画家としてあるべき責任感と歴史観に誇りを持っています。「そうでないと子孫に芸術家は無責任だとか不真面目だなどと笑われ、一時代の文化が築けませんからね。」
 
延平書画クラス
(02)2810-0809
延平北路9 段66 巷18 号
 
文 観止  写真 顔涵正
 

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